コンシェルジュノート

2012/07/31 再建屋 道元

第三十三話「旅立ち」

 早樹は、呆然とした。
 「どうして・・・。」
 早樹と美子は、いつものように夕食の片付けをしていた。お客様の行き交う音が少なくなる時間帯のパントリーは、少し寂しげであった。目の前の食器洗浄機の廻りには、ビールやお酒が少し残ったグラスやおちょこが大量に散らばっていた。
 「私もびっくりしたわ。」
 美子は、そう言いながらせわしく手を動かしながら折敷を乾拭きした。
それから二人は、黙っていた。黙々とグラスや折敷を拭いては、食器保管庫に運ぶためのワゴンに次々と乗せていった。狭いパントリーは、廊下を行き交うお客様の声もなくなり、カチャカチャというグラスがぶつかる音だけが響いた。二人とも、何かにとりつかれたように、ただ黙々と作業を続けていた。
「皆さん、本当にお世話になりました。短い期間ではありましたが、非常に有意義な時間を過ごさせて頂きました。皆さんには、感謝しております。」
道元は、深々とお辞儀をした。
誰からともなく、小さな拍手が起きた。そして次第にそれは大きな拍手へと変わっていった。しかし、早樹だけはうつむいたまま顔を上げようとはしなかった。拍手もしようとはしなかった。
道元は、大きめのキャリーバッグを引きながら近くのバス停へと歩いて行った。
「道元社長。」
後ろから、大きな声がした。道元が振り向くと、早樹が少し恥ずかしそうな顔をしながらこちらに向かって走っていた。道元の目の前に来ると、いつもの早樹の笑顔だった。
「道元社長。・・・ありがとうございました。・・・私の好きな旅館に・・・戻して頂いて、本当に感謝しています。」
息を切らせながら、一所懸命に話していた。
「本当は私、どうして道元社長がお辞めになるのか、分からなかったんです。昨日の夜、美子さんから聞いて、私どうして良いか分からずに・・・。でも、・・・私はもっともっと頑張れそうです。」
大きな瞳に、道元が映り込んでいた。
「だって、女将を初め、仲間がいるから。本当に一緒になって頑張れる仲間がいるから。・・・道元社長、またいつかおいで下さい。その時には、もっと良い旅館になっていますから。きっとですよ。」
「早樹さん、ありがとう。期待しているよ。」
一言簡単に返して、道元はバスに乗り込んだ。
道元は、早樹の向こうに広がる海を窓から見つめた。海はいつも通りきらきらと輝いていた。その光に早樹が溶け込んでいるようだった。
 「ありがとう。」
つづく