第十話「静かな鼓動」
「いつ頃からか、俺たちは自分のことしか考えなくなっちまったんだな。」
突然、和食レストランの板長が、どこを見るのでも無く、誰に話しかけるでも無く力なく話し始めた。
「私たちは、お客様のために美味しい料理を出そうと、そればかりを考えてきたつもりです。食材にはこだわりたい、しかし原価設定も厳しい。そうなると、手間をかけて作るしか無いんです。魚も市場に行って出来るだけ安く鮮度の良いものを仕入れて、うちで全部捌く必要があるんです。出来合いは極力使わないことで、原価率を調整してきたんです。手間をかける分だけ、どうしても労働時間は長くなってしまう。朝6時前から仕込みが終わる夜10時まで、これが普通だと思っていました。」
「しかし・・・。」
道元は、何も言わず板長の方を見つめていた。
「いつのまにか、お客様のためと思ってやっていたことが、自分のためにやっていることに変わってきたんじゃないんだろうか。朝から晩まで働いて、自分の納得いく食材を仕入れて、手を抜かずに仕込むことが、お客様のためだと信じてきた。しかし、道元さんの話を聞いて、それは、自分のやりたいことをやっているに過ぎないんだと、気づいたんです。」
「そう考えると、お客様から料理追加のお願いを断ることは、どうなりますか。」
先日、板場で板長と向き合って話していたことを、道元はまた持ち出した。
「やっばり、それは間違っているんじゃないかと。お客様は、若干中身が変わったとしても大切な人と食事をすることが目的だったんだろうし、それを楽しみにしてきたんではないでしょうか。」
それからしばらく、沈黙が続いた。しかし、その沈黙は冷たいものではなかった。ここにいる幹部が、一人ひとりが何かを考えているようであった。静かな空間に、確かにうごめく鼓動を、道元は感じていた。
「では、道元さん。そろそろ良いでしょうか。時間も時間ですし、全体ミーティングはこれで終了と言うことで。」
これまで何もしゃべらず、相変わらず静かな表情を崩さなかった折伏総支配人が、ミーティングの終わりを告げた。そして、道元が応える前に、折伏総支配人は一人席を立ち会議室から去って行った。
つづく