第六十話 『薄暗がりの女将』
いつものように朝礼が終わった後、女将は切通支配人を呼び出した。お客様のチェックアウトも終わり、館内の特にバックヤードは昼間なのに薄暗く静かだった。
「支配人。あなたはフロントと内務をしっかり見てくれていればいいの。あまり仲居にあれこれ言わないでほしいの。仲居を含めて接客の最前線は私がしっかり見ているから、大丈夫だから。」
女将は、柔和な表情を浮かべていたが、目の奥は深く沈んでいた。そこには女将としてのプライドが見え隠れしていた。
「あれこれと言われましても、一体どういったことでしょうか。」
切通支配人は努めて冷静に応えた。日頃から冷静に物事を客観視した言い方が、オーナー家からは疎んじられる要因にもなっていた。しかし、そのほとんどは現状の本質を言い当てており、だからこそオーナー家を苛立たせるのであった。
「最近、仲居が配膳の手伝いに板場に入ることが多くなったのよ。あなた達はお客様への接待が主な仕事だから、余計なことをしなくていいの、と言ったにも関わらず、止めないのよ。」
口元を若干ゆがめたのを、切通は見逃さなかった。女将の癖だった。決してお客様の前では見せない仕草だった。
「だから、これは支配人がそのように仲居に指示を出しているのかと思ったのよ。そうでしょ。」
「・・・。」
経営改善委員会での議論を切通は思い出していた。そこで何回か繰り返されてきた各部署の現状や問題点について、各部署リーダーが訥々と話していた。何か決まったわけではない、この会議で話したことが、自然と仲居をそのような行動に仕向けていったのだと思いついた。
最初、特に仲居と内務のリーダーは、お互い責任や業務をなすりつけるような話ばかりしていた。
道元副社長は決してそれを止めなかった。むしろ議論や口げんかみたいなものを仕掛けることさえあった。しかし、このような議論や口げんかを繰り返すことで、いよいよそれぞれが疲れてしまったようだった。
確か、その頃からだった。内務に偉そうに指示する仲居が減ってきたのは。 いや、むしろ板場との料理のやりとりを少しでも手伝おうとする若い仲居が増えてきたのは。
「いい、分かったわね。変な手出しはしないようにしてね。お客様との接待は私が責任者なの。これは、命令よ。」
女将はそう言い捨てて、薄暗がりのバックヤードの、更に奥の闇へと消えていった。
…つづく